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2015年03月21日

Operation Eagle Claw

Operation Eagle Claw

何気に調べていたら意外な人がこの作戦に関わっていたので
今回は1979年に発生し、1980年4月24日から4月25日に行なわれた
『イーグル・クロウ作戦』を掘り下げます!

この年代って谷間ですよね…。


文章先行になります。ご了承下さい。
 ホメイニ師(※1)のイスラム改革によってイランのパーレビ王朝が打倒されてから9ヵ月後の1979年11月4日、狂信的なシーア派の神学生グループが首都テヘランのアメリカ大使館に乱入し、大使館員など66人を人質として立てこもると言う事件が発生した。
(うち女性など13名は事件発生後間もなく開放されたため人質は53名。)

 彼らは国の富を食い物にしたパーレビ前国王(※2)をイスラムの法で裁くべきだとする最高指導者ホメイニ師の意向に従い、アメリカで病気療養中だったパーレビ前国王の身柄をイラン政府に引き渡すよう要求したのだった。

 イランのアメリカ大使館が、ホメイニ政権の後押しを受けた武力勢力に占拠された事を知ったカーター大統領(※3)はただちに人質救出作戦を実行するよう、ブラウン国防長官に命令した。

だが、救出部隊の編成に着手した彼らはここで大きな過ちを犯してしまう。

奇襲による人質救出作戦は、高度な連携と臨機応変な対応が要求されるため同一組織内で長期間にわたって共同訓練を受けた小部隊で遂行する事が常識とされていたが、ジョーンズ空軍大将を長とする統合参謀本部は作戦遂行の効率や任務との適性ではなく陸・海・空・海兵の関与のバランスを重視した形で混成部隊を編成したのであった。

 もし部隊運用の効率と作戦遂行の確実性を重視して、例えば陸軍の特殊部隊のみに救出作戦を実施させたのなら、成功の確率は上昇する反面、空軍や海軍、海兵隊の幹部からは「なぜ陸軍にだけ活躍のチャンスを与えるのか」という不満が沸き起こる事となる。
そのような不協和音の発生を防ぐためには4軍のどこからも文句が出ないような部隊編成にする必要があった。
つまり、総員208人から成る米軍の人質救出部隊の編成は純粋な軍事的要請に基づいて行われてしまったのである。

 また、救出作戦の計画立案に取り掛かった統合参謀本部のスタッフは別の難問に直面していた。

 情報収集と分析を担当するCIAが、清廉潔白をポリシーとするカーター政権下で過去の秘密工作を暴かれて批判の矢面に立たされた結果、活動規模を大きく縮小されていたのである。この事により、数百人の職員が解雇された上、大勢の非公式な協力者も同様に失われていた。
その結果、統合参謀本部は救出計画の立案に不可欠な大使館周辺と建物内部に関する十分な情報を入手することができなかった。

 情報(インテリジェンス)と指揮統制(コマンド・コントロール)は軍事作戦を行う上で最も重大な要素だが、自軍がこの2大要素において致命的な弱点を抱えている事に気付いていなかった。



 チャーリー・ベックウィズ大佐(※4)に率いられたデルタフォースの隊員達は、フォート・ブラック基地内に大使館の実物大模型を作り、建物への突入訓練を79回も実施していたが、空軍や海軍、海兵隊の特殊部隊はそれぞれ個別の場所で同じように担当する任務だけの訓練を行っていた。

そして、全ての救出部隊を参加させて行う救出作戦全体の予行演習は機密保持と各軍間に存在する指揮系統の壁が原因で、結局1度も行われることが無かったのである。


Operation Eagle Claw

(※1)ホメイニ師
アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー
イランにおけるシーア派の十二イマーム派の精神的指導者。


Operation Eagle Claw

(※2)パーレビ前国王
モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー
パフラヴィー朝イランの第2代にして最後の皇帝。
「白色革命」を推進してイランの近代化を進めたが、イラン革命により失脚する。

「ガン」を理由に渡米した事が神学生グループの怒りに火を付け今回の事件が起こる。


Operation Eagle Claw

(※3)カーター大統領
ジェームス・アール・“ジミー”・カーター
第39代アメリカ合衆国大統領。
就任式の後、議事堂からホワイトハウスまで歩いて就任パレードを行った初の大統領である。
冷戦のさなか「人権外交」を標榜し、中東において長年対立していたエジプトとイスラエル間の和平協定
「キャンプデービッド合意」を締結させるなど中東における平和外交を推進した。
CIAの規模削減によって情報収集能力を低下させイラン革命や本作戦の失敗、
アフガニスタン扮争を許した事から共和党などから「弱腰外交の推進者」とレッテルを貼られる。

スリーマイル島の原発事故も任期中に起こっている。


Operation Eagle Claw

(※4)チャーリー・ベックウィズ大佐
チャールズ・アルヴィン・"チャーリー"・ベックウィズ
いわずと知れた「デルタフォース」の創始者。
最終階級は陸軍大佐。




 1980年4月25日の午後6時、米軍の救出部隊132人とイラン領内の行動で使用する米軍ヘリに給油するための燃料を載せた6機のMC130輸送機がアラビア半島東端のオマーンの沖合いに位置するアル・マシラ島を出発し、午後10時30分から11時頃にかけてイラン領内のテヘラン南東約490Kmのカヴィール砂漠にある平坦地(地盤の比較的硬い岩塩乾湖底)に設置された合流地点『デザート・ワン』に着陸した。この場所はすでに4月1日未明に軽輸送機でイラン領内へと隠密潜入したジョン・カーニー大佐率いるアメリカ空軍特殊戦術部隊『ブランドX』によって着陸誘導用の機器が設置されていた。

 統合参謀本部が立案した計画によると、アラビア海上の空母ミニッツを発艦した海軍のRH53Dヘリコプター8機(機体は海軍所属だが海軍の乗員は砂漠を低空飛行した経験が無かったため操縦士16人のうち13人は海兵隊、1人は空軍から特別に派遣されていた。)が30分後にこの場所に到着し輸送機からの燃料補給を受けた後、救出部隊を乗せテヘラン近郊の着陸地点『デザート・ツー』へと再出撃する事になっていた。

 そして『デザート・ツー』でヘリを降りた救出部隊は現地で待機するCIAの中近東担当幹部ディック・メドウズ(ソンタイ捕虜収容所急襲作戦の救出部隊長)に提供されたトラック6両とバン2両で大使館に向かい、奇襲攻撃で人質を救出した後、大使館に近いサッカー場で再びヘリと合流して脱出を開始しテヘラン郊外のマンザリア飛行場までヘリで飛んだ後、そこに強行着陸した米軍の輸送機でイランを後にする段取りだった。

 ところがイラン沖合いに停泊中の空母ミニッツを飛び立った海軍ヘリ8機の内2機が飛行中に故障し『デザート・ワン』には6機しか到着できなかった。しかも、ここで燃料を給油中にさらに1機の故障が判明した。

 救出部隊の隊長ベックウィズ大佐は、この作戦の実行には最低6機のへりが必要だとと考えていたがこの段階で使用可能なヘリはわずか5機に減少してしまい予定していた規模での救出作戦の実行はもはや絶望的となった。

 相次ぐトラブルの発生に頭を抱えたベックウィズ大佐はエジプトのカイロで作戦全体を統括するジェームス・ヴォート陸軍中将に作戦中止を進言した。

 ヴォートは統合参謀本部の意向を確認した後、4月26日午前1時57分に作戦の中止を決定し、直ちに帰還準備を開始するようベックウィズ大佐に命じた。

だが救出部隊に降りかかった災難はこれで終わりではなかった。


 無線で作戦中止の命令を受けた現地部隊は救出部隊の撤収に使用する輸送機が再び基地へと引き返すのに必要な燃料を給油するため、その輸送機の脇に駐機しているヘリを脇へ移動させようとした。
ところがこのヘリは離陸と同時にバランスを崩して急降下し燃料を満載した別の輸送機に激突・炎上してしまった。

Operation Eagle Claw

 この事故で空軍の乗組員5名と海兵隊員3名が死亡し、輸送機1機とヘリ1機がさらに失われてしまった。

 結局、残った4機のヘリは現地で破壊する事が決定され生き残った兵士は何の成果も挙げられぬまま空しくアル・マシラト島の基地へと引き上げる事となった。



ここでイラストで本作戦の流れをもう一度。


Operation Eagle Claw

4月1日
エジプトを出発したアメリカ空軍特別戦術部隊『ブランドX』を乗せた輸送機が『デザート・ワン』に到着。


Operation Eagle Claw

4月25日午後6時
救出部隊132人とヘリに給油するための燃料を積んだ6機のMC130輸送機がアル・マシラ島を出発。



Operation Eagle Claw

4月25日
アラビア海に停泊中の空母ミニッツから海軍のRH53Dヘリコプター8機が出発。



Operation Eagle Claw

飛行中にRH53Dヘリコプター2機が故障し、合流地点『デザート・ワン』には残りの6機が到着。



Operation Eagle Claw

到着した6機のヘリの内1機の故障が判明し作戦の中止が決定。
撤退時にヘリが輸送機に激突して炎上。





 こうしてアメリカの国鳥『ハクトウワシ』が大空から舞い降りて人質を掴み上げ再び空へと飛び去る姿になぞられて『イーグル・クロウ作戦』と名付けられたこの人質救出作戦は無残な失敗に終わった。
この作戦の失敗は大きかった。
 作戦が発覚したことでイラン側が激怒して態度を更に硬化させただけでなく、作戦から5日後の4月30日に発生した駐英イラン大使館占拠事件が特殊部隊SASによる6日間の攻防の末に事件を解決するなどしたことでアメリカの面子は失われたのである。

 こうした事が重なってか民主党のカーター大統領の支持率は下落し、共和党のロナルド・レーガンに大統領の座を譲る事となる。

 人質占拠事件は、引渡しを要求していたパーレビ前国王当人が死去したことにより占拠の理由が薄れ、対イランの資金凍結も解除された事も重なり占拠から444日後の1981年1月20日に人質は全員解放され、事件は収束を迎えた。
(この日はカーターがレーガンにホワイトハウスを譲る日だった)





 その後、アメリカ軍はこれを教訓として、アメリカ特殊作戦軍設立・育成を筆頭として、陸軍はハニー・バジャー作戦(※)から発展した通称「ナイトストーカーズ」と呼ばれる第160特殊作戦航空連隊を、海軍はNavy SEALsから分割させたSEAL TEAM6(現DEVGRU)を設立している。Operation Eagle Claw



アメリカ軍特殊部隊はこの作戦における苦い経験から多くのことを学び取り、やがて他国を凌駕する最強の軍団へと成長していくのである。

(※)ハニー・バジャー作戦
第101空挺師団の3個飛行大隊を中心に当時新鋭機だったUH-60ブラックホークなどを用いて
特殊作戦用ヘリコプターの開発及びイラン大使館の人質の再奪還を目標としていたが
人質がすでに解放された為、出動せずに終わった幻の作戦。






いやはや、まさかこの作戦にあのメドウズの名前が出てくるなんて…。(一瞬だったけどw)
作戦は失敗に終わったけど知った名前が出てくるとなんか映画みたいでワクワクしちゃいました。(笑)




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Posted by RABBIT-FOOT at 09:21│Comments(4)歴史
この記事へのコメント
あまりにも有名な本作戦にメドウズ氏が関与していたなんて‼️
全然知りませんでした。


貴重な情報ありがとうございます。
Posted by ディファイアントディファイアント at 2015年03月21日 09:52
>>ディファイアントさん
私も資料をぱらぱらと見ていて「はっ」としました。(笑)
メドウズ氏はソンタイだけって決め付けてた事にちょっぴり反省しております。(汗)
Posted by RABBIT-FOOTRABBIT-FOOT at 2015年03月21日 22:29
十数年前ですが、うちのチームの人がニュー山王ホテルのバーで三島軍曹と飲んでた時、本人が酔った勢いでこの作戦の事を話してくれたそうです。
なんでも、当時アフガニスタンでムジャヒディンの軍事顧問をしていた三島軍曹らSFチームもイーグルクローのサポートメンバーとして動員され、派遣先のアフガニスタンから馬でイラン領内に潜入し、作戦の推移を現地で監視していたそうです。ヘリが燃えているのを遠くから見てたそうで・・・
当時は完全に『秘』な話だったようですが、もう35年も前の事なので、書いちゃっていいかな~と。
Posted by タイガタイガ at 2015年03月28日 21:14
>>タイガさん
まさか『あのお方』もこの作戦にかんでいたとは!驚きです。
貴重な情報をありがとうございます!

きっと炎上した時には複雑な気持ちだったんでしょうね。
Posted by RABBIT-FOOTRABBIT-FOOT at 2015年03月28日 23:25
 
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